延元元(1336)年 5月25日、湊川合戦当日、神戸を見下ろす高さ約80メートル余りのここ会下山(えげやま)に楠木軍は本陣を敷いた。
この地で、楠木軍700余名と同じ宮方である新田軍2万数千の連合軍、そして九州より攻め上ってきた足利尊氏、高師直率いる海からの軍勢、そして、足利直義率いる陸からの軍勢合わせて10万余とが刃を交える湊川大戦の火蓋が切って落とされた。
朝8時、足利尊氏の率いる約 1000艘の船団が兵庫の沖に現れ、これに合わせて、神戸の近くに陣を構えていた足利直義を大将とする陸上軍も行動を開始する。
新田軍は、海上から攻め寄せる足利尊氏軍に備える為に、和田の岬周辺に陣を構えた。
陸路は、楠木軍が陸路を東上して来る足利直義の部隊に対峙するために、山沿いに位置するここ会下山に「非理法権天」旗を翻し陣を敷いた。...
「人は天道によって動くもので、決して天道を欺く事は出来ない」という意である。
会下山の楠木軍は、突如として直義軍の真正面から突撃を開始する。
多勢に無勢と油断していた直義軍の意表をつく戦法は、神出鬼没を得意とする正成ならではである。
全く予期せぬままの激しい突撃に、直義軍は総崩れとなるが、楠木軍は逃げ散る敵兵には目もくれず、まっしぐらに大将の足利直義をめがけて更なる猛追をかける。
正成は、今度の戦いの目的をただ敵の大将・足利直義を討ち取ることのみに絞っていた。
圧倒的な敵に打ち勝つには、これより他に策はない。
いかなる絶望的な苦境であろうと、ほんの少しでも可能性が残されているならば、その可能性に全力を注ぎ、全てを賭けて戦う以外の選択肢は無い、これが楠木流の戦い方である。
この猛烈な突撃をくぐり抜け、命からがら逃げおおせた直義であったが、直義はもちろんの事、足利全軍に「楠木は何をするか分からない 」という非常なる恐怖心が植え付けられた事は言うまでもない。
こうして楠木軍が直義軍を会下山に引き付けている間に、新田軍は京へ向かって退却し始める。
一見、新田が楠木を見捨てて退却したように見えるが、実はこれも全て正成の計算通りのシナリオであった。
敢えて、新田を京へ退却せしむる状況を作り上げる事により、南朝方の兵力の温存を図ったのである。
新田軍を退却させた後、新田と対峙していた海上軍の尊氏は、直義の苦戦の報を聞きつけ、退却する新田軍の後は追わず、楠木と対峙している直義軍の援軍に加勢する。
これにより、足利尊氏・直義両軍合わせて10万余騎もの大軍を、楠木軍僅か700騎のみで一手に引き受けての死闘を展開する事になる。
旧暦5月25日は、新暦では7月12日であり、うだる暑さの炎天下である。
そんな過酷な状況下に於て、本来であればすぐにでも決着のつく兵力差であるところが、激闘は6時間にも及び、午前10時より午後4時までの間に、楠木軍は16度もの突撃を繰り返した。
午後4時半時点で、楠木軍は73騎となった。
死期を悟った正成は、ここでようやく会下山離脱を指示、現在の湊川神社境内北西角に当時建っていた小屋に入り、一族郎党、「七生報國」を誓い合い、見事な自刃を果たした。
私共は、かような熾烈極める生き様、死に様を運命付けられた一族なのである。
戦闘場面がリアルに浮かび書いていて、少々胸が苦しくなってきたので、ひと呼吸。
閑話休題。
さて、現在の会下山は憩いの場として公園となっており、当時の激戦の名残は全く残っていない。
ただ、公園の一角に、東郷平八郎元帥揮毫の「大楠公湊川陣之遺蹟」の碑が建つのみ。
ここからは神戸の街が一望でき、当時、足利の水軍、陸軍両軍の動きがしっかりと把握できる高台であり、正成がこの地に本陣を敷いた事も頷ける。
会下山公園は、軍略の天才・正成の獅子奮迅の戦いの旧蹟である。