日本人の「美」というもの

「幽美会新春の集い」の舞台にて、久々に鑑賞した能楽「羽衣」。
「羽衣」の美しさには、身体の芯からシビれた。
天女の美しさに魅せられ、その羽衣を奪い天女を我が物にしようとした漁師。
そんな漁師の想いをよそに、羽衣を取り戻した天女は、この国の繁栄を祈念して数多の宝物を降らし国土に恵みを施しながら、十五夜の満月の天空のかなたに姿を消してゆく。...
消えゆくものこそ美しい。
「竹取物語」や「鶴の恩返し」も同じく、かぐや姫が月に帰らなければ、若しくは、鶴が猟師のもとを去らなければ、物語の魅力と美しさは失せてしまう。
本来、日本人にとって、進退の潔さは「美」の必須条件である。
逆に、不適切な執着はややもすると、醜いものにもなりかねない。
散り際の美、引き際の美とは日本人の究極の「美」であり、日本人の死生観にも通ずるものと心得る。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ…
「羽衣」の天女の神がかり的なまでの美しさの記憶は、脳内で未だに鮮烈。
深遠な悲哀を秘めた小面(こおもて)の美しさには思わず息を飲む。
能楽ほど只ならぬ緊張感を感じさせるまでの研ぎ澄まされた美を追求した芸術は、世界に類が無い。
というわけで、今週も我が国の本来あるべき美を追求しつつ精進する所存。
今週も宜しくお願い致します。