天狗党の乱

幕末の動乱期、国事の為に殉じた水戸藩士達を御祭神とする回天神社へ参拝、その後、隣接する回天館、所謂、鰊蔵へ。
朝廷が望む横浜港鎖港が幕府によって実行されない事に業を煮やした水戸藩士・藤田東湖の息子に当たる藤田小四郎らは、時の将軍であり、水戸藩先代藩主・徳川斉昭の実子でもある徳川慶喜に横浜港の即時鎖港を要求すべく、1864(元治元)年、水戸藩内の尊攘激派を募って筑波山で挙兵、武田耕雲斎を首領に迎え、江戸を目指しました。
これが世に言う「天狗党の乱」。

彼らは、同じく横浜港鎖港を主張していた慶喜を頼り、西上、京都を目指し行軍しますが、その途上、越前国辺りに差し掛かった折、天狗党が頼みとしていた慶喜自身が、実は天狗党追討の総大将となった事を知り、大義名分を失ってしまいます。...
更に、追討軍によって行く手を阻まれ、山中の険しい道無き道を行軍したものの、遂に降伏。
彼らの身柄を当初に預かった加賀藩は、彼らの尊皇の志に打たれ丁重に厚遇しましたが、間もなく、幕府に身柄が引き渡されてから待遇は一変、捕えられていた823人の天狗党らは、敦賀にあった十六棟の鰊蔵へ押し込められ、真冬の厳寒期に一月あまりの間、暖も無く不衛生な環境下にて残虐極まりない扱いを受けました。
挙句、翌年2月、僅か5日の内に、武田耕雲斎や藤田小四郎を始めとする352名が首を打たれ、その首はそのまま穴を掘って無造作に埋められました。

実際に、その惨劇を祖父母が目撃したという敦賀の「水戸烈士遺徳顕彰会」の中瀬実会長から、目撃された処刑の様子についての詳細を、数年前にお聞きした事がありますが、恐らくは、これ程の大人数が処刑という形で虐殺されたのは、日本では他に類を見ぬものであったと思われます。
尊皇の大義を掲げて死力を尽くした末の、天狗党の余りにも悲惨な最期でした。
彼らの首が埋められた敦賀の土塚には、後に松原神社が建立されました。

現在、敦賀にあった鰊蔵の一棟が水戸へ移築されており、回天館として、天狗党の資料を展示しています。

「回天」とは、藤田東湖の著作である「回天詩史」に由来。
回天館内部には、当時押し込められていた天狗党の人々が書いたであろう「叶う」の文字が壁の数箇所に遺されいます。
中には、自らの血で文字を書いた形跡もあり、彼らの決死の思いにみちた悲痛な叫びが聞こえてくるかのようでした。

また、館内には、彼らが崇敬してやまなかった大楠公の墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」の拓本も。

茨城には、今でも、天狗党の末裔の方々がいらっしゃいます。
「大義と正義とは違う」という天狗党の末裔の方の言葉は、心に深く残っています。
それこそが「忠義」に命を捧げた侍の心です。

楠公精神を掲げて命を捧げ、志半ばで散って逝かれた多くの水戸烈士英霊に、供花をさせていただき、慰霊の誠を捧げさせていただきました。
必ずや、彼らの思いを後世にしっかりと伝えてまいります。
回天館から出ようとすると、入口マットから両足が離れなくなり、驚きました。
彼らの御霊が引き留めたのかも。。と言われ、きっとそうなのかもと思いました。
この後、水戸を後にし、次なる目的地、水郷・佐原へ。
水戸にて大変お世話になりました山本様、本当にありがとうございました!