村上義光の墓所参詣

村上義光(よしてる)という武将をご存知だろうか?
元弘の変にて、挙兵された大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう)の為、身を呈して守った忠臣である。

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が笠置山にて挙兵されたものの、約ひと月で笠置は陥落、鎌倉幕府に捕らわれた後醍醐天皇が隠岐に配流となる。
大塔宮は、一旦、楠木正成が立て篭もっていた赤坂城へ入った後、奈良・般若寺へ移り潜伏、再起の時を窺っていた。
その後、潜伏先の般若寺に追手が迫った為に、山伏姿に身を包み熊野を目指し脱出するが、義光はこの時に親王に付き従い熊野への途上を先導している。

元弘3年(1333年)、護良親王は、吉野の蔵王堂を本陣として再び挙兵、幕府はこれに対して6万余騎を率いて吉野山に攻め入り、親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで敵兵が迫った。
親王は、「もはやこれまで」と最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王に落ち延びるよう説得する。
親王を逃す間、義光は幕府軍を引き付けておくために、親王の鎧を着て自らが囮とならんと蔵王堂の山門に仁王立ちに立ちはだかり、大音声で
「我こそは、天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁である。逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」
と、迫り来る敵軍の目前にて声高に叫び、腹真一文字にかっさばき、自らの腸を引きちぎり敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに打ち臥して、壮絶な自刃を遂げた。

これに先立ち、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。
その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍となり力尽き、切腹し自刃している。
身代わりとなって蔵王堂で果てた義光の首級を北条方が検分し、親王ではないと知って草むらに打ち捨てられたのを哀れと思った里人がこの地に墓所を建立、勤皇の為に散った忠臣を丁重に弔ったという。
親王を守り見事な自刃を遂げ散っていった忠臣の中の忠臣と言えよう。

稀代の忠臣の墓は、吉野の山中にひっそりと建つ。

墓前に手を合わせると、国事に殉じた忠臣の想いが強く強く伝わってきた。
国家に殉じ散っていった彼らは、今現代の日本をどのような想いで見ているのだろうか。
我々は今一度、自問自答しなければならない。