信貴山朝護孫子寺参詣

我が二十五代の祖・楠木正成の生誕に大いに関わる信貴山朝護孫子寺。

朝護孫子寺の縁起は、聖徳太子が信貴山上にて毘沙門天を感得した事に始まる。

太子が守屋討伐の戦勝祈願をされた所、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって見事に大願成就し「信ずべき貴ぶべき山即ち信貴山と号す」として毘沙門天をお祠りになられた霊場。

鎌倉時代末期には、正成の生母が子宝に恵まれぬ為に当山の毘沙門天へ100日詣でをし、長子・多聞丸(後の正成)を身篭ったので、正成もまた、当寺を篤く信仰した。
また、元弘の変では、大塔宮護良親王が当山に陣を敷いており、南朝との縁の深き寺院でもある。
戦国期には、松永久秀が信貴山城を構えて入城。
伊勢楠氏流山下家に伝わる家伝では、室町幕府第13代将軍・足利義輝の暗殺に際し、楠木一族は義輝暗殺の首謀者の一人である松永氏を陰で支援したと伝わっており、我々楠木一族と松永氏との深い関わりが窺われる。
松永久秀に関しては、多聞城と称する城も築いており、これもまた興味深い。

朝護孫子寺の霊宝館には、正成所用の兜(重要文化財)や楠木正成所用の菊水の軍旗が収められており、現在に残る数少ない正成の遺品として非常に貴重な宝物である。

心願成就の修行道場である本堂の「戒壇巡り」では、漆黒の闇の中で十二支の守り本尊に祈り、如意宝珠に触れる事で大いなる功徳を得られるとされる。
楠木一族であり、寅年生まれの私にとっては、とても思い入れ深く信心している寺院。